宝石販売指導マニュアル

10 ジュエリーの発祥

原始のジュエリー

原始の昔、人間は地上で生活をする最も弱い哺乳類であったとされる。そのために神は人間に知恵を与えた。最初に火をそれから道具を、それでも人間は他の獣から襲われるには十分に無防備であった。 人間は衣類を身に纏うようになったのは旧石器時代の10万年前頃からと思われる。この頃の衣類は勿論布ではなく、獣皮であった。食料としての後の獣皮はそれを被り化身することにより他の獣に近付き攻撃したり、また攻撃から身を守るものであった。一方それは寒さや怪我から身を守るものともなった。しかし、獣皮は乾燥するとそれは活動的ではなく、着心地の良いものでもなかった。それがいつの日か軽量な代替品を考え、一方では着心地の良いものを考えるようになった。
後述の者に関しては皮を当時の人間は口に含み噛んだり、肉を取り除いた後に水で揉み洗いをしたり、獣油をすり込む事により其の柔軟性を維持した。これが衣類の始まりであり、皮のなめしの原型である。最初の口に含むものは現在でもイヌイットが最近までアザラシの皮に対して採用していた方法である。
前述の方は他の獣から身を守るものから、威嚇するものへと変わっていき、より派手に、より動きやすい物へと形を変えていったと思われる。それが身に他の動物の一部をまとい、顔に泥や樹液を塗ることになる。これが後に刺青や、化粧になっていく。また、それの道具化したものが装飾品の起源であろうと考えられる。後日それが自分を大きく見せたり、威嚇をしたり、偶像化していくための道具となっていく。それが用途によって権力であったり、宗教であったり、文化であったりとそれぞれの役割を果たしていったと思われる。
実際に現在の装飾品を想像させるものは3万年から3万5千年前ころだといわれています。それは現在のネックレスにあたる物を木の実や貝殻で作っていたとされる。勿論この頃に関した旧石器時代ですから遺跡も希薄であり、ちょうど現生人類が存在し始めてきて頃からですからこれ以降、日本での縄文時代以降に本格的装飾品の時代が始まります。またこの頃には宗教的行事の後も見られ、その道具としての装飾品と思われるものも世界各地で出土している

中世のジュエリー

ここでは主にヨーロッパを語ることになりますが大きく二つに分けられます。いわゆる、ローマ帝国を中心とした装飾品文化とローマ人以外をさす北方欧州人バーバリアンの装飾品文化です。前者は宝石なども巧みに使った繊細なものを、後者は地金を中心にしたどちらかというと金具に近いものです。
バーバリアンたちの装飾品がキリスト教文化と出会い形を整えてきたが前者は支配層の装飾品として後者は被支配層の装飾品としてあり、それぞれに高価な素材を使うかどうかにより階級制度があったようだ。しかし、これらのものが融合するには時間をそれほど必要とはしなかった。
ブローチはバーバリアンの代表的なものであったが中世中期(西暦1000年前後)にはこの時代を象徴する宗教文化の中にすでに含まれていた。この時代にはほとんど現在のデザインと技術の原型は存在し、現代装飾品の祖といってよい時代であろう。この頃に装飾品としてのブローチやベルトのバックルが完成されてきたといわれる。この頃のものは地金を打ち出したチェイシングといわれる技術を施したもので女性や騎士が浮き彫りされていた。
この時代に多くの装飾品が進化したことは間違いないのだが華美になりすぎることによりフランスでは社会的地位をあらわすようになっていた装飾品を市民階級が家柄の高い低いに関わらず身に着けることを禁止した。

近世のジュエリー

十六世紀から近代に向けては初期ルネッサンスを経て技術、デザインがほぼ完成形と向かった。つまり、石の研磨技術の著しい発展や石止め技術の発展により17世紀にはエナメルに代わって宝石の色をふんだんに使ったジュエリーが現れてきた。また、18世紀には昼と夜のジュエリーがハッキリと別れるほどの技術差や知識が現れてきた。太陽光線とロウソクの光を意識したデザインは研磨技術の進化のおかげだろう。
この頃には多くの一般女性たちも装飾品を身につけるようになってきた。ジョージアン、ビクトリアンといったアンティークジュエリーはこの時代のものが多く出回っており、ビクトリアンになると大量生産され始めたものも多く品質を貶めた時代でもあった。

日本のジュエリー

わが国日本でも縄文時代より多くのジュエリーを身に着けてきたが奈良時代を境にその形跡は失われる。その目のジュエリーというものはヒスイの項で述べたように勾玉や珠をはじめ多く発見されている。また、貝塚からは貝殻を糸で通していたと思われる首飾りや腕輪と思われるものも発見されている。また、近世に入ると簪(かんざし)や髪飾り(櫛など)や刀の飾りなどの装飾品が進んできたがヨーロッパ的なジュエリーが入ってきたのは明治時代になってからである。

宗教色

12の数字をキーワードとした宝石の話は誕生石をはじめよく出てきますがこれは一つには旧約聖書『出エジプト記』の中によく宝石の話が出るとともに当時のユダヤ教の高僧たちが12の宝石の胸当てをつけていたことから言われるのでしょう。12というのはユダヤ民族の12の部族を象徴しておりといわれております。また、多くの宝石にまつわる話はここから発生しております。
ジュエリー自体のデザインとして十字架は勿論のことカメオや首飾りなども元々は宗教色の濃いものであったといわれる。古代では一種の祈祷や祀り物としてキリスト文化ではサファイアの候で述べたように法王の指輪など数え上げたらきりがありません。また、基本的な形で蛙の形というものがあります。これは下を向いた矢印が丸みを帯びた、カサの開いたきのこを逆さにした形に似ていますがこれは古くから蛙の中には《トードストーン》という体に良いと言われる石を持っているといわれこの形を身につけることにより無事を祈るといわれております。これは、太平洋沿岸の広い地区で言い伝えがあると言われています。

政治色

これは宗教色にもつながりますがその時代その時代の権力を持っているものが宝石を自由にすることが出来るわけで、古代エジプトのファラオたちは多くの宝石を自らの元に集め、また、ルイ14世は宝石を献上させることにより自らの権力、威厳を現していた。それは古代においては神秘性のある宝石を操る者、近世においては希少性が高く高価のものを集める力、それが時の権力と富の象徴であり、それを支配するものが時代を支配し、また権力のある者しか宝石を支配することは出来なかった。

文化色

カメオとはラテン語で浮き彫りを指しますが現在カメオと呼ばれている物がいつ頃からそうよばれる様になったかは定かではありません。ちなみに彫り出し式のものはインタリオといいます。しかし、カメオ(浮き彫り)宗教的にまた政治(権力)的側面を持つ装飾品は多くありますが,その過程でもそのことには関係なくファッションとして発生した装飾品もあります。十八世紀以前のジュエリーはロウソクなどの照明の下で宮廷服とともに着用することを前提としていますが昼間の集まりも貴族社会でどんどん増えることにより、昼間のジュエリーが必要とされてきた。それはダイアモンドなどの貴石を中心にした衣類や靴、バックル、小物入れ等のただの無駄遣いのような贅沢品となっていった。つまり意味合いのないジュエリーの発生である。

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